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ムラ社会が生んだ悲劇
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060217-00000041-mai-soci

滋賀県長浜市の路上で神照幼稚園の5歳の園児二人が刺殺された事件。逮捕された容疑者は同じ幼稚園に通う別の園児の母親だった。
自分の長女が通う幼稚園の園児を殺害するとは、どのような背景があったのだろう。殺された園児には20箇所以上の刺し傷があったそうだから普通の殺し方ではない。通常こういった場合は強い怨恨が元なっているものが多いが、まさか5歳の園児に対してそれだけの恨みがあるとも考えにくい。やはり被害者の親と何かあったと考えるのが自然だろう。

鄭永善容疑者は数年前に日本に来たばかりの中国籍の女性で、日本語があまり得意でなく、周囲に馴染めない様子だったという。これだけで大体の事実関係は想像できる。
当事者でなければ理解できないだろうが、日本社会のアウトサイダーに対する差別というのは苛烈を極める。人種が違う。国籍が違う。言葉が違う。そういう存在を決して日本人は受け入れようとしない。
単に社会から排除されるだけならば、排除されたほうとしてはまだ個人の尊厳を保てる分だけましかもしれない。普通の日本人は面と向かって相手を暴言や暴力で攻撃する事をあまりしない(中にはそういう者もいるが)。異物に対する彼らの常套手段は相手の尊厳を徹底的に否定し、自分より下のヒエラレルキーに相手を押し込め、精神的に支配しようとすることだ。

日本人には本当の意味での対等という概念が無い。彼らにとって、他者とは支配するか支配されるか、のいずれかでしかなく、彼らにとっての「対等」とは等しく支配されているという横並びの意識の現われでしかない。本来の、個人主義の礎としての対等と比するなら、日本人にとっての「対等」とは奴隷主義とでも言うべき、被支配者同士の慰め合いから発生した卑しい根性の表れなのだ。異なる個性を持った存在同士がその違いを認めた上で互いに受け入れあう。そういう当たり前の事が日本社会では実現されていない。

被支配を通常なものとして受け入れた人間は、心の慰めとしてより弱い立場にいる者を支配しようとする。彼らにとってはそれが当たり前なのだから。弱い他者は支配されなければならない。それが外から見れば如何にグロテスクな行為であろうと、常に内向けの視点しか持たない日本人はその異常性に気付く事は無い。
そして、異なる文化の下で右も左もわからない中国人女性など、支配する対象としては格好の獲物だっただろう。容疑者の女性は日本社会という狂気の渦に捕らえられた生贄であったのではないか。

挨拶をしても無視される。
集まりには一人だけ呼んでもらえない。
困った事があっても周りの人は相談にも乗ってくれない。
腹が立ったり惨めな気分になるのを抑えて、ほとんど卑屈なまでにコミュニティーに参加するために努力をする。
それでも人種という本人にはどうしようもない部分で差別され、助けてもらうどころか見えないところで陰口を叩かれたりする。

容疑者の女性が実際にこのような目にあっていたかどうかは定かではない。しかし、同年代の子を持つ親でありながら、か弱い子供を惨殺するしかなかった彼女のやり場の無い怒りと憎しみがどこから来たものであるのか、俺にはなんとなく想像がついてしまう。
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